乳癌患者の妊娠・出産と生殖医療に関する診療ガイドライン

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がん・生殖医療の実践と課題ー患者と医療者のジレンマと,対話による意思決定ー

がん・生殖医療の実践に向けて

がん治療は臨床情報や遺伝学的情報,がんの生物学的特性から検討されるが,その中でも乳癌治療は専門的・集学的に発展し,生存率の改善に結びついた領域である。薬物療法の恩恵も大きいが,直接的な卵巣機能低下をきたす化学療法や,5~10年と長期にわたる術後内分泌療法は予後を改善する一方で,妊娠・出産する機会を失う可能性を高めることが分かっている。これに対してがん治療の支持療法の一環として,がん薬物療法の前に胚(受精卵),未受精卵,卵巣組織等を採取し凍結保存を行い,がん治療終了後に凍結保存された配偶子・接合子から妊娠・出産のための生殖医療を受ける,妊孕性温存療法が発展してきた。もともと原発乳癌に対する薬物療法は再発リスクを下げる目的で行われていることから,患者は自身の生命の安全を優先してがん治療を遅延なく行うことと,将来の妊娠・出産の可能性を残すことを,自身の価値観の中で相対的に考え,選択しなければならないという“ジレンマ”をもつことになる。

国内の研究では,患者の妊孕性温存を検討する際に医療者が患者と話し合う時間が十分とれないことや,専門領域を越えた情報提供が困難であることが報告されている1)2)。若年のがん経験者に対するアンケート調査でも,妊孕性について十分な情報提供を受けておらず,また地域や施設に差があることが報告されている3)4)。欧米でも患者背景により妊孕性低下の説明に差があることや,45歳未満の乳癌患者の半数に挙児希望があることが推計されており,また挙児希望の有無が術後内分泌療法の拒否や中断との相関関係があることも報告されている5)~13)。十分な対話のもとに治療を選択することは,がん治療の完遂率を高め予後を改善する可能性があること,また妊孕性温存を選択しない患者のQOLを改善する可能性も報告されている14)15)。がん・生殖医療の目標の一つが,患者に身体的,精神的,社会的な豊かさをもたらすことであることを忘れず実践することが肝要である。

何が正しく,何が最善なのか。患者が心の葛藤を抱えた中で答えを導くことは簡単ではなく,また各々がもつ悩みやおそれ,人生への期待は多種多様であることから,画一的な方法で解決することは困難である。ここで医療者に求められるのは,患者を理解するための患者中心のコミュニケーション,対話である。

〈補注〉

本ガイドラインは,生殖年齢にある乳癌患者が,がん治療と将来の妊娠・出産について考える際,十分な情報提供と患者中心の対話により行われる協働意思決定,妊孕性温存,胚移植と妊娠・出産,また妊娠期乳癌治療について対象としている。患者の生命の安全と妊娠・出産の希望を鑑みて胚移植を行う際,薬物療法は終了もしくは中断している必要があることから,タイミングとしていつが適切なのかというジレンマも生じる。すでに転移がある乳癌患者にとって,薬物療法の中断は患者の生命を脅かすことから,胚移植は基本的には適応外と考えられる。しかし十分な対話に基づく協働意思決定は,転移の有無にかかわらずどのような患者にも必要であるという認識は重要である。また医療は日進月歩で発展し続けており,転移があっても乳癌患者の予後の改善は今後も期待できると考えられる。再発リスクが高い患者に対する妊孕性温存療法の適応は個別の判断になるが,将来の予後改善や治療に対するアドヒアランスを考え,可能な範囲で許容されると考えられる。また未確立の生殖補助医療についても,日本産科婦人科学会等の見解や指針に準じて今後検討していく課題である。医学の発展とともに倫理的課題が増え,我々の臨床の現場で必要な臨床倫理も同時に進歩・発展していくことが求められる。

がん患者の生殖医療における倫理的配慮の重要性【参照】書籍版P169

医療者,特に医師はその職業倫理として,患者の生命・健康を最優先して医療を行う使命があり,患者の被る不利益は最小になるよう配慮しなければならない。そして患者の人格を尊重し希望を守らなければならないという責務を負って医療に従事している16)~18)。がん・生殖医療では患者が心の葛藤を抱えると同時に,医療者も患者の生命を守る使命と,患者の希望を尊重したいという感情の葛藤を抱えている。がん・生殖医療には不確実性も多く,医療者はジレンマの中で判断に迷うことも多いが,その問いに答えを与えてくれるのは相互理解と対話である。

元来,生殖医療は医療技術によって生命操作を行うという観点から,生命倫理と関係の深い領域である。そして倫理観は文化宗教,時代背景,個々人,民族や国によって異なることから,社会とのコンセンサスが重要であり,患者の希望だけを尊重する自律尊重の考えのみで検討されるべきではない18)。生殖医療の現場においては,患者本人の意向だけではなく家族の意向も知り,生まれてくる児の将来をともに検討していくことが求められる。このような背景を知り,未確立の生殖医療に対しての見解等,産婦人科領域では倫理規範としてどのように考えられているのか【参照】書籍版P169,がん治療医側も十分理解しておく必要がある。またがん治療医側から,乳癌治療により予後がどの程度見込めるのか,がん治療開始まで時間的猶予がどの程度あるのかを生殖医療側に共有する等,お互いの領域の相互理解を欠くことがないよう留意すべきである19)

また患者と医療者の相互理解も不可欠である。妊孕性温存や妊娠・出産が自身の生命に与える影響や,がん治療による児・母体への影響も含め,がん・生殖医療には不確実性があること,そしてジレンマが生じることは患者と医療者の間で共有されるべきであると考えられる。患者と医療者の双方が,取捨選択しなければならないというジレンマとそれによる心の葛藤が生じることを知ること,そして患者中心の対話を行い,医学的な情報をその不確実性も含めて理解しともに選択していくことは,がん・生殖医療で守られるべき医の倫理であるという認識が重要である。

学際的チーム医療の必要性【参照】書籍版P183

患者が具体的に治療を選択・決定していく際,実際には患者本人も自身の潜在的なニーズに気が付いていない場合や,同席するパートナーや家族と意向が異なり自身の感情を表出できない場合,また妊孕性に固執し乳癌治療を行うことが困難な場合も想定される。患者が納得のいく意思決定をするためには,がん治療や生殖医療といった医学的情報だけではなく,自分自身の望む生き方を理解することが重要となる。幼少期から性や生殖について正しい情報を知り,将来の妊娠・出産・子育てを含めた生活や健康を妊娠前から考えておく,というプレコンセプションの概念は現段階でまだ十分浸透しておらず,患者は乳癌の罹患によって初めて自身の望む生き方を考え,時にはそれを再構築しなければならない場合もある20)。患者のニーズを的確に拾い上げ,適切な情報提供を行い,十分な対話に基づき治療を選択していくためには,多職種による学際的な患者への関わりが重要となる。患者がどのような選択をする場合にも長期的なサポートが必要であり,このプロセスにおいて様々な職種や乳癌経験者(患者会・ピアサポート)が果たせる役割は大きいと考えられる。

本ガイドラインでは草案作成段階から,乳腺外科医・腫瘍内科医・放射線治療医・看護師として乳癌診療に携わる医療者,大学病院や総合病院,クリニックで生殖医療や周産期医療に携わる医療者,そして医療社会学・生命倫理学者,公衆衛生学者,乳癌経験者も参加し作成した。システマティックレビューチームにより文献を吟味・考察する際も乳癌・生殖両方の専門領域から意見を出し,検討を行った。ガイドライン作成チームによる推奨作成でも,各々の領域・立場から意見を出し,議論し推奨決定を行った。多様な視点からの考え・意見を十分反映させることが重要であるという視点のもと,投票メンバーは多領域から参加し,推奨決定はGRADEアプローチを採用した。その過程で70%以上の合意が得られないこともあったが,様々な意見を本文に反映するよう努めた。解説の部分でも,乳癌治療医,がん看護師,薬剤師,生殖医療医,生殖心理カウンセラー,乳癌経験者で各々が果たし得る役割を議論し,意思決定支援について執筆した。また乳癌治療医,生殖医療医,生命倫理学者で,患者・医療者の双方が抱えるジレンマについて検討し倫理的な検討を行い,また法的な視点・経済負担について弁護士・生殖医療医が執筆した。

学際的なチーム医療が求められるがん・生殖医療の現場で,様々な職域の多様な意見を反映し作成された本ガイドラインを役立てていただき,今後この領域をさらに発展させていっていただきたいと考えている。

1)意思決定支援・心理支援のながれ

2)がん治療側から患者へ情報提供が望まれる項目

  • 乳癌の病期,サブタイプ,予後の見込み
  • 標準的ながん治療の内容と,その開始時期・期間・副作用・費用
  • 予定された薬物療法による妊孕性の低下,妊孕性喪失の可能性,新しい薬物療法ではその影響がまだ不明であること
  • 年齢や現在までの生殖に関わる情報から考えられる,がん治療後の妊娠・出産の見込み
  • 妊孕性温存の具体的な内容と,時期・副作用・費用,また乳癌の状況から考えられる妊孕性温存にかけられる時間の許容度
  • 薬物治療中の避妊の必要性,妊娠が許可できる時期の見込み,また妊娠・出産のために術後内分泌療法を中断した場合の影響について
  • 妊孕性温存や将来の妊娠・出産が乳癌の治療や予後に与える影響等,がん・生殖医療には不確実性があること
  • 具体的に妊孕性温存療法をどこで受けられるか
  • 妊孕性温存しない場合の他の選択肢について

3)生殖医療側から患者へ提供が望まれる項目

  • 年齢や現在までの生殖に関わる情報から考えられる,妊孕性温存できる見込みとその方法,かかる期間と費用,また妊孕性を温存せずがん治療後に生殖医療を受ける場合の見込み
  • 各々の妊孕性温存方法とメリット,デメリット,期間,費用,治療成績
  • 妊孕性温存した場合の,具体的な妊娠の方法や周産期医療について
  • 生殖医療の限界と,がん・生殖医療には不確実性があること
  • 子をもたない選択について
  • 家族をもつ手段としての里親制度・特別養子縁組について
胚凍結・胚移植については,下記の情報提供が重要である。
  • 代理懐胎が認められていないこと
  • 胚移植の際には本人だけではなく,パートナーの同意も必要であること。
    (死後生殖や,パートナーとの関係が解消された場合に胚移植できないこと)

4)それぞれの職種やピアサポートに期待される役割

がん・生殖医療の領域に限らず,自施設でチーム医療を実践していくためには,お互いの立場として担える役割を果たし,支え合い,時に議論してつながっていく,学際的なチーム医療が重要である。患者には,妊孕性温存をするかしないかだけではなく,自身の納得のいく選択を行い,時には人生観を再構築し,新たに歩み出すことへのサポートが必要である。そのためには,患者は適切な相手に適切なタイミングで相談できることが重要であり,必要に応じて各々の職種や患者会・ピアサポートの存在を紹介することも必要である。それぞれが患者やチームに果たし得る役割については,巻末の各職域に関する解説【参照】書籍版P183を参照いただきたい。

看護師

がん治療において,看護師は診断から治療方針決定,また治療中の支持療法等,がん治療と生活の両立をサポートする役割を担っている。その過程の中で,患者に一番近い存在として,治療医が知らない気持ちや社会背景,家族のことを知ることも多い。患者のニーズを適切な時期に拾い上げ,薬剤師や心理士等,適切な職種の介入を促すことができる存在になり得る。また医療費の負担や妊孕性温存についての助成等,社会福祉についても情報提供することができる。

がん治療中だけではなく,治療終了後に実際の妊娠・出産に向かう際にも,医療者間の情報共有や調整の役割等も担うことができる。また長期的な心理支援を継続的に行うことが可能である。

助産師

がん患者にかかわらず,助産師は女性が妊娠・出産・子育てを経験する中で様々な支援を行うことができる。特に乳癌患者にとっては,自然妊娠もしくは胚移植の段階から,妊娠・出産に対する不安について,また授乳や子育ての不安について傾聴し,適切な支援・介入を行うことができる。

薬剤師

薬物の副作用についての適切な情報提供を行うことで,アドヒアランス低下を防ぎ,服薬指導や継続的な副作用モニタリングを行うことができる。チーム医療の実践の中で,各々の薬剤による副作用,特にここでは妊孕性に対する影響や内服中の催奇形性等,がん治療医や看護師等,チームに情報共有し啓発することができる。

生殖心理カウンセラー

がん告知と妊孕性について二重のストレスを抱えた患者の心理的アセスメントを行い,必要なサポートを行いながら,医療情報の正しい理解を支援することで患者の希望や問題点を明らかにすることできる。また患者とパートナー,家族間におけるコミュニケーションを促し,患者や家族にとって最善の選択を自己決定できるように支援することができる。がん治療を優先するため妊孕性温存を諦める患者に対しては,妊孕性喪失の心理的ケアや,ライフステージに応じた心理支援を行い,女性として,夫婦としての生き方等の再構築をサポートすることができる。

患者会・ピアサポート

同様の体験をした経験者が実体験に基づく情報提供し,ともに考え整理することは,患者の孤独感や疎外感,不安の緩和につながる可能性がある。また患者会に参加することで,患者は当事者の多様な経験や価値観を知り,またどのように向き合ってきたのかを知り,自己を客観視することが可能になる。このようなプロセスは,患者の自己肯定感の回復につながる可能性がある。

参考文献