本ガイドラインは,乳癌治療後に妊娠・出産を希望する患者と医療者の協働意思決定を支援することを目的として作成した。
まず乳癌患者ががん治療後に妊娠を試みる際,妊娠が乳癌治療のアウトカムである再発や死亡に影響を与えないか,また乳癌患者に対し生殖補助医療を用いることで生殖補助医療のアウトカムである妊娠率や出産率が高まるのか,がん治療やがんの予後に影響を与えるかどうかについて,がん治療および生殖補助医療それぞれの立場から検討した。また実際に挙児希望を有する患者が,乳癌治療後の妊娠を試みるかどうかの判断材料として,妊娠によるがんへの影響(再発や予後),乳癌治療後に生殖補助医療を用いることによる安全性や挙児可能性への影響,経済的な負担,生まれた子どもへの影響等,複数のアウトカムを検討した。
実際の意思決定のプロセスにおいて,患者と医療者は,本ガイドラインに記載された複数のアウトカムに関する益と害を一つひとつ検討し患者の価値観に照らし合わせて,総合的に満足のいく意思決定につながることを期待している。
日本人女性の乳癌罹患数は年間約93,000人を超えると推定され,その発症数は30歳代後半から急増し,65~69歳でピークを迎える(独立行政法人国立がん研究センターがん対策情報センターがん情報サービス,2018)。20歳代から40歳前後まではまさに挙児可能年齢(リプロダクティブエイジ)に相当し,乳癌経験者が治療後に挙児を希望する場合も多い。一方で,乳癌患者においては抗がん剤治療や長期間の術後内分泌療法による卵巣機能低下により自然妊娠が望めない場合もあることから,生殖補助医療を用いた胚凍結,未受精卵凍結,卵巣組織凍結等の妊孕性温存療法を用いたり,がん治療後に生殖補助医療を用いて妊娠を試みるという方法もとられている。
乳癌患者の治療後の妊娠の希望を叶えるためには,乳癌治療医と生殖医療医の連携が不可欠ではあるが,がん領域と生殖領域は全く領域が異なることから,知識の共有や相互理解が難しい現状があった。
そこで国内では,こうした乳癌患者の妊娠・出産に関するニーズが広く認識されるようになり,平成24-25年度厚生労働科学研究費補助金第3次対がん総合戦略研究事業「乳癌患者における妊孕性保持支援のための治療選択および患者支援プログラム・関係ガイドライン策定の開発」班により本ガイドラインの前身となる「乳がん患者の妊娠出産と生殖医療に関する診療の手引き2014年版」が乳癌治療医と生殖医療医の相互理解のツールとして刊行された。また2017年に最新の知見を追記するかたちで改定作業が行われ,日本がん・生殖医療学会(以下,本学会)より「乳がん患者の妊娠・出産と生殖医療に関する診療の手引き2017年版」が刊行された。
本ガイドライン作成にあたり,統括委員およびガイドライン作成委員で本領域に関する診療アルゴリズムを作成した。診療アルゴリズムをもとに,重要臨床課題を選択し,PICO(患者patient,介入intervention,比較comparison,結果outcome)形式のClinical Question(CQ)を作成した。
乳腺領域,生殖領域の医師,看護師,経験者が関わり,様々な臨床現場での重要臨床課題を検討し,各領域の重要なアウトカムが網羅されるよう選定に配慮した。文献検索からシステマティックレビューを経て,推奨を決定していく課題をCQ,すでにエビデンスが明らかなものをBQ,推奨を決定していくためのエビデンスの蓄積が足りない課題をFQとした。すべてのCQにおいて患者の価値観や費用に関するアウトカムを含めた。
「乳がん患者の妊娠・出産と生殖医療に関する診療の手引き2017年版」は,がん・生殖医療の普及の背景を受け,2014年に続き,医師だけではなく,がん・生殖領域に関わる多くの医療者に活用されるものとなった。一方で,作成方法は日本医療機能評価機構(Minds)「診療ガイドライン作成マニュアル2007」に準拠していたため,作成の厳密さに欠ける点があった。また複数のアウトカムから益と害について評価するという方法を用いていなかった。
実際に挙児希望を有する患者が,乳癌治療後の妊娠を試みるかどうかの判断をする際には,妊娠によるがんへの影響(再発や予後),生殖補助医療を用いることによる安全性や挙児可能性への影響,経済的な負担,生まれた子どもへの影響等,複数のアウトカムに関する情報を得て判断する。改訂版では各CQ内で複数のアウトカムを検証し,妊娠を希望する患者やそのパートナーが意思決定をするうえでの判断に活用できるようなガイドラインを目指す方針とした。
本ガイドラインはがん領域と生殖領域という異なる医療者が使用することを考慮すると,がん治療においてのアウトカム(例:乳癌再発や乳癌死亡)と生殖治療においてのアウトカム(例:妊娠率,出産率)を明記し,異なる領域の医療者が分かりやすい表現で推奨文と解説を作成するよう工夫した。また推奨文の作成にあたり,Minds「診療ガイドライン作成マニュアル2017」ではCQに対する推奨文の文末を「推奨する/推奨しない」という記載にすることが望ましいとされているが,「妊娠を試みる」という行為は,乳癌の体験をしたかどうかにかかわらず,個人の価値観が大きく影響する行為であるため,「推奨する/推奨しない」といった文末の表記は適切ではないと判断した。したがって妊娠に関する推奨(CQ8)に関しては,医療者との対話の中で,患者自身も検討すべき複数のアウトカムの益と害を踏まえて,妊娠を試みるかどうかの意思決定につながる表現に努める方針とし,敢えて「推奨する/推奨しない」といった表記は控えた。
そのうえで,作成方法は原則Minds「診療ガイドライン作成マニュアル2017」に準拠するものの,一部のCQや推奨文の作成においては,本ガイドラインの利用者に対しより分かりやすく,また患者の価値観を尊重する記載となるよう努めた。
本ガイドラインは,乳癌治療後に妊娠を希望する乳癌患者および妊娠中に乳癌の診断を受けた患者を対象としている。乳癌治療前の妊孕性温存および乳癌治療後の妊娠に関する項(1~3章)は,原発乳癌患者(遠隔転移を有さない患者)を対象とした。
専門性,性別,地域性を考慮し,委員を選任した。委員の一覧は,書籍に掲載した。
本ガイドラインでは「妊娠」という極めて価値観の個別性が高い事象を扱うことから,患者の価値観や希望への配慮を重視した。具体的にはガイドライン作成グループのメンバーに若年性乳癌経験者で,自身だけではなくピアサポーターとしても乳癌治療後の妊娠について向き合ってきた経験のある御舩美絵氏(若年性乳がんサポートコミュニティPink Ring 代表)および牧野あずみ氏(日本がん・生殖医療学会患者ネットワーク)に,改訂作業の開始時期から参画いただいた。また,患者の価値観や希望に関する文献やアンケート調査についても,すべてのCQで文献検索を行い,可能な限り収集を試みた。また,経験者代表者にはすべての推奨決定会議にもご参加いただいた。さらに推奨決定会議ではGRADEシステムのEvidence to Decision Frameworks(EtDframeworks)を用いて討議し,患者の価値観や意向の反映を試みた。
乳癌治療に従事する乳腺外科医,腫瘍内科医,放射線科医および生殖医療に従事する産婦人科医,そしてがん・生殖医療に関わる看護師・助産師,薬剤師,臨床心理士,胚培養士等の職種に活用していただきたい。また,病院勤務の医療者に限らず,がん生殖医療に取り組むクリニックに勤務する医療者,がん生殖医療に対する取り組みを実施しているあるいはこれから取り組みを検討している行政機関の方々にも活用していただきたい。また本書は患者目線での記載に注力しており,ぜひ乳癌治療後の妊娠に関して検討している患者や支援者にも活用していただきたい。
検索データベースおよび遡及検索年代はPubMed(1966~2019年),医中誌(1977~2019年)およびThe Cochrane Library(Cochrane Database Systematic Review)を用いた。文献検索は聖路加国際大学学術情報センターの河合富士美氏(日本医学図書館協会員)が行った。
システマティックレビュー(SR)チーム内で以下の方法でエビデンスの選択を行った。
1つのCQに対し2名のSR委員が独立して一次スクリーニングを行った。2名のうち1名は乳腺領域,1名は生殖領域のメンバーを選択した。一次スクリーニングではタイトル,アブストラクトからCQに合っていないもの,Letterや総説などを除外した。2名の結果を照合し,二次スクリーニング用データセットを作成し,文献を収集した。
二次スクリーニングも2名のSR委員が独立してフルテキストを読み,文献選択を行った。文献選択基準はいずれのCQにおいても,ランダム化比較試験,非ランダム化比較試験,コホート研究,症例対照研究,横断研究とした。二次スクリーニング後に残った文献以外に,重要な文献はハンドサーチで追加した。
各CQにおいて,エビデンス評価シートを用いてアウトカム毎のエビデンス評価を行った。アウトカム毎のエビデンス評価シートでは,バイアスリスク(選択バイアス,実行バイアス,検出バイアス,症例減少バイアス等),上昇要因,非直接性,非一貫性,不精確性,出版バイアスを評価した。アウトカム毎のエビデンス評価が終了後,エビデンス総体用のエビデンス評価シートを用いて,CQ全体のエビデンス総体評価を行った。エビデンス総体用の評価シートでは,各CQアウトカムにバイアスリスク(選択バイアス,実行バイアス,検出バイアス,症例減少バイアス等),非一貫性,不精確性,出版バイアスの評価を行い,エビデンスの強さを決定した。 エビデンス総体を作成した後,定性的SRを行い,CQ毎にSRレポートを作成した。エビデンス総体評価シート,SRレポートは本学会ホームページで公開する。
エビデンスの選択からSRレポート作成にかけての一連の作業はSR委員が独立して行い,ガイドライン作成チームは関与しなかった。
推奨決定会議にはSR委員とは独立して,ガイドライン作成委員のみが参加し,推奨作成を行った。メンバーには医師だけでなく,看護師,公衆衛生,医療倫理,患者の立場の代表者にも加わっていただいた。推奨決定会議はすべてオンライン会議で行った。
推奨作成にはGRADEシステムのEtD frameworksを用いた。EtD frameworksでは以下の9つの判断基準を用い,様々な視点からCQを包括的に評価した。
ガイドライン作成委員は推奨決定会議前に各自で各CQをEtD frameworksを用いて評価し,統括委員が事前投票結果をまとめ,推奨決定会議の資料とした。推奨決定会議ではEtDframeworksの判断毎に議論を行い,再投票を行った。9つの基準に対する評価が終了後,以下の選択肢から「推奨のタイプ」に関する投票を行った。
推奨のタイプ
対照,介入の双方が推奨される場合にのみ「当該介入または比較対照のいずれかについての条件付きの推奨」は選択可能である。
70%以上の合意率が得られるまで議論を続け,最終的な「推奨のタイプ」を決定した。推奨決定会議の内容はガイドライン本文内に明示し,推奨決定までのプロセスの透明化に努めた。推奨決定会議はすべてオンライン会議で行い,録画した会議内容は推奨文および解説文執筆の際の参考資料とした。議論と投票と続けても合意率が70%に満たないCQについては,様々な立場からの視点で推奨が変わり得ることが伝わるよう,その議論の詳細を本文に示した。
なお,本ガイドライン2017年版で用いた「弱い推奨」という推奨は,本領域の実臨床では分かりづらいという意見があり,本改訂委員会ならびに編集委員会で議論した。本改訂ではGRADEシステムを利用し推奨を作成すること,推奨のタイプを「当該介入の条件付きの推奨」や「当該介入または比較対照のいずれかの条件付きの推奨」等とし,具体的な条件を推奨の解説に分かりやすく記載することとした。
本ガイドラインが取り扱っている乳癌患者の妊娠に関しては,個々の患者により多様な価値観があるため,それらへ配慮する形での提示方法をとった。また本領域に関するエビデンスは不確実な点も多く,実診療の場ではその不確実性を包含したうえで協働意思決定をする必要がある。そのため,推奨提示にあたっては重要なアウトカムに関する不確実性についてあえて言及するようにした。また,多くのCQが「条件付き推奨」となったことから,その「条件」を具体的に明示し,推奨文と併記することにした。
さらに解説文では推奨決定会議の中で話し合われた議論内容,投票結果を記載した。最終的に決定した「推奨のタイプ」とは異なる意見に投票した委員の意見も記載し,多様な意見のうえで推奨が決定されたことを明示した。
また,乳癌患者の中には,将来的な妊娠を諦めざるを得ない患者も少なからずいる。様々な葛藤の中で意思決定をしていく患者も多い。本ガイドラインでは巻頭および巻末に「意思決定支援・心理支援」に関する具体的な項を設けることで,そのような患者の思いに対応することを試みた。
冒頭に記載した外部評価委員と関連学会から外部評価を受けた。また本学会ホームページでパブリックコメントを募集した。パブリックコメントの募集に際してはMindsのパブリックコメント募集支援を活用した。
外部評価およびパブリックコメントを,統括委員,ガイドライン作成委員で供覧し対応した。
診療ガイドラインに関するご意見は,常時,本学会にて受け付ける。定期改訂は概ね3年毎を予定しているが,その間に臨床的に重要と判断されたエビデンスが報告された場合は,その事項に関しシステマティックレビューを行い,推奨決定会議を開催し,推奨を決定する。またその場合は推奨や解説を本学会ホームページで公開する。改訂手続きは本学会が主体となって行う。
本ガイドライン作成時(2020年1月~2021年3月)において,本ガイドラインで提示しているがん患者に対する生殖補助医療は一部の地方自治体では助成制度を設けているものの,保険適用外診療であり,すべて自費診療となっていた。施設によって若干異なるものの,1回の採卵や胚移植には数十万円単位の費用がかかり,生殖機能の温存を考える若年世代のがん患者にとって,経済的負担が大きく,普及の阻害要因となっていた。したがって,推奨決定会議の際にはその点に考慮した投票がなされ,推奨に反映されている。
しかしながら2021年4月より国の「小児・AYA世代のがん患者等の妊孕性温存療法研究促進事業」が開始されることが決定し,がん患者の妊孕性温存療法に対し助成金が交付される運びとなった。助成金の交付により,本ガイドラインの対象となる若年乳癌患者はより妊孕性温存を選びやすくなることが予想され,ガイドラインの適応を促進するものと考える。
ただし,がん患者に対する妊孕性温存を行っている生殖専門医療機関は限られており,すべての不妊クリニックで実施可能な手技ではない。この点はガイドライン適応の阻害要因となっていると思われる。がん患者に対する妊孕性温存を行っている生殖専門医療機関に関しては本学会ホームページより閲覧可能である。
本ガイドラインに関しての要望は随時,本学会事務局で受け付けを行い,次回改訂の際の参考にする。
本ガイドラインの作成に必要な費用は,本学会から提供されている。資金提供者である本学会は本ガイドラインの内容に影響を与えていない。
全ガイドライン委員の経済的COI,アカデミックCOIを調査した(巻末参照)。すべてのCQに対し深刻な経済的またはアカデミックCOIを有する者はいなかった。