乳癌患者の妊娠・出産と生殖医療に関する診療ガイドライン

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総論
挙児希望を有する乳癌患者に対するがん治療について

近年,初期治療後の長期生存者の増加に伴い,治療後のクオリティ・オブ・ライフ(QOL)が重要視されるようになってきた。薬物療法による脱毛や嘔気等の短期的な,あるいは心毒性や二次発がん等の長期的な有害事象はこれまでにも広く検討されてきたが,化学療法による卵巣機能障害や,術後内分泌療法等,長期の薬物療法中の加齢による妊孕性の低下が明らかにされている。若年者における乳癌薬物療法はこの年代の女性に特有の結婚,妊娠,出産等のライフイベントに影響を与えることを,がん医療者および生殖医療者は患者と共有することが重要である。

近年ではがん医療と生殖医療との連携により,がん薬物療法による妊孕性低下を防ぐ手段が積極的に試みられるようになっており,挙児希望を有する乳癌患者にとっては,妊孕性を温存しながら適切な薬物療法や手術,放射線治療を実施していくことが理想である。実際には乳癌の進行状況や個別の背景事情により,妊孕性温存の手段が適応とはならない乳癌患者も存在すること,あるいは妊孕性温存の手段を用いても将来確実に妊娠・出産に至らない場合もある。しかしながら治療後のQOL向上のためには,乳癌患者に対し,がん治療医は,薬物療法が乳癌の予後および妊孕性に与える影響に関する情報を治療開始前に提示すること,将来の挙児希望について相談すること,挙児希望がある場合には妊孕性温存に関する手段について情報提供を行い,必要に応じて生殖医療者と連携を行うことが求められる。薬物療法の治療方針決定のプロセスにおいて,がんの予後や患者の意向も踏まえたうえで十分に話し合い,医師と患者の双方が納得のいく意思決定(shared decision making)をすることが重要である【参照】「がん・生殖医療の実践と課題」

薬物療法について【参照】書籍版P187:2)
がん治療が生殖に与える影響

薬物療法の適応は乳癌の生物学的特性,進行度と患者の状況を鑑み,「益」と「害」のバランスと不確実性について患者と共有し決定すべきである。挙児希望のある乳癌患者にとっては,薬物療法による卵巣機能障害,不妊の可能性等の「害」について十分に説明したうえで,挙児希望のみを理由に安易に薬物療法を回避するのではなく,生殖医療医へのコンサルテーションを勧めたり,薬物療法のレジメンを検討することが重要である。

術後内分泌療法においては,タモキシフェンは催奇形性との関連性が強く示唆されており,妊娠する一定期間前から妊娠期間中の投与は避けるべきとされている1)2)。薬剤そのものの影響だけではなく年単位の治療期間延長による卵巣機能低下も考慮する必要がある3)~6)

化学療法においては,薬剤の選択に際して卵巣機能に与える影響が異なるため,あらかじめレジメンによる治療効果や不妊リスクの違いに関する情報提供をしたうえで,薬物療法レジメンを検討することが推奨される。無月経の頻度には年齢と薬剤が影響し,年齢が高いほど,また,特にアルキル化剤であるシクロホスファミドの累積投与量が多いほど無月経のリスクが高くなる7)8)。またアンスラサイクリン系とタキサンの併用レジメンも治療後の無月経のリスクがあるため,化学療法の開始前には生殖医療での卵巣機能評価と妊孕性の温存に関する診察を受けておくことが勧められる。

トラスツズマブは羊水過少症または無羊水症との関連が強く示唆されるため,投与中の妊娠は勧められない。モノクローナル抗体であるトラスツズマブは妊娠初期には胎盤を通過しないことが分かっており妊娠や新生児に影響を与えないとされている9)。一方で,妊娠中期から後期では,胎児腎に発現する上皮成長因子受容体(epidermal growth factor receptor ; EGFR)がトラスツズマブによって阻害された結果,胎児腎の正常発育が妨げられ,妊娠中期以降に行われる羊水生成に障害をきたすことで,高率に羊水過少症や無羊水症が発生すると推察されている10)。トラスツズマブのヒト生体内における半減期は16~38日程度であり,投与終了からしばらくは母体内にトラスツズマブが残存していると考えられるため,トラスツズマブ投与終了後7カ月間は妊娠を勧めるべきではない。

放射線治療について

術後放射線治療に関しては,乳房部分手術後に行われる温存乳房照射と乳房全切除後の再発高リスク患者に行われる胸壁・領域照射は,局所再発を減少するだけではなく,乳癌死のリスクを減少することが示されており,その実施が推奨される。放射線による妊娠への影響については,国際放射線防護委員会(International Commission on Radiological Protection;ICRP)より刊行されたICRP 84「妊娠と医療放射線」11)によると,生殖腺へ照射を受けた場合のその後の妊娠・出産により生まれた児にがんや奇形が増加するという報告は今までに示されておらず,また原爆被爆生存者の子や孫を対象にした研究や,放射線治療を受けた小児がんの生存者に対する研究においても,子孫に対する遺伝的影響は示されていないため,放射線治療後の妊娠に関して遺伝的影響を考慮する必要性は乏しいと考えられる。

温存術後照射を施行された患者が出産した場合には,授乳に関する問題が生じる。乳腺組織が照射を受けると,乳管周囲の細胞の凝集や乳管の硬化,小葉・乳管周囲の線維化,小葉の萎縮等が起こり,乳汁分泌は低下することが知られている。また,乳頭の伸展不良,乳汁の成分の変化が起こるといわれており,児は非照射側の乳房での授乳をより好むとされている。照射された乳房でも約50%に乳汁分泌が保たれているとの報告もある12)が,照射側の乳房での実際の授乳は困難であることが多い。一方で,非照射側の乳房には特に影響はなく通常通りの授乳が可能とされている(第3章BQ7参照)。

参考文献